中村 不折 なかむら ふせつ
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月落ち烏啼きて 霜 天に満つ 江楓 漁火 愁眠(=くよくよして眠れない)に対す 姑蘇(=蘇州) 城外の 寒山寺 夜半(=夜中の12時頃)の鐘声 客船に到る 張継詩 楓橋夜泊 |
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133.3p×30.2p |
慶応2年7月10日(新暦 1866年8月19日)生〜昭和18年(1943年)6月6日歿 |
本名はニ太郎。正五位。帝国美術院会員・芸術院会員。 森鴎外や夏目漱石等の作家とも親しく、『吾輩は猫である』『若菜集』『野菊の墓』などの挿絵や題字を書いた。また、中国の書の収集家としても知られ顔真卿の現存する唯一の真蹟といわれる「自書告身帖」などを収集し、1936年に台東区根岸の旧宅跡に書道博物館(現在は区立)を開館した。なお、不折の筆跡は現在でも、宮坂醸造の清酒「真澄」や新宿中村屋などの商品表記に用いられている。 (書道博物館のリーフレットより) 中村不折(1866−1943)は、明治・大正・昭和にわたり、洋画界と書道界の両分野において大きな足跡を残した人物である。 画家を志した不折は、小山正太郎(1857−1916)の薫陶を受けた後、フランスのアカデミー・ジュリアンに入学し、ジャン=ポール・ローランス(1838−1921)の指導のもと、約4年間かけて人物画を徹底して学び、緻密な構図をベースに躍動的で力強い写実主義を確立した。 帰国後は、自らの作品を精力的に制作し展覧会に出品する一方で、太平洋画会研究所において後進の育成にあたり、後にその校長を務めるなど、教育者としても大いに貢献した。 ところで、洋画家として出発した不折が書道研究に傾倒した最大の契機は、日清戦争従軍記者として中国へ赴いたことにある。 この機会に約半年をかけて中国、朝鮮を巡遊し、後の彼の書に少なからぬ影響を与えた碑拓などをはじめ、漢字成立の解明に寄与しうる考古資料を目にし、それらを日本へ持ち帰ることを得たのである。 書においては、こうした資料から多くを学び、なかでも北派の書を根底とした、不折独自の大胆で斬新な書風を展開したことで知られている。 中村不折記念室では、不折がフランス留学中に勉強したデッサンをはじめ、晩年の油彩画や、水彩画、南画、書など不折自身の作品と、不折の手がけた文学作品の挿絵、装丁の類を展示している。 また、不折と交流のあった正岡子規や夏目漱石など、文豪たちの書簡も同時に展示している。 「不折筆」の下に、朱文の「孔固亭主」の落款印が押されている。 推奨サイト http://burari2161.fc2web.com/nakamurafusetu.htm http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%8D%E6%8A%98 http://kotobank.jp/word/%E4%B8%AD%E6%9D%91%E4%B8%8D%E6%8A%98 http://www.shibunkaku.co.jp/biography/search_biography_number.php?number=20116 http://www.city.ina.nagano.jp/view.rbz?nd=736&of=1&ik=1&pnp=47&pnp=379&pnp=734&pnp=736&cd=1280 http://www1.tmtv.ne.jp/~hsh/20seiki16.htm |